1.はじめに 1891年(明治24年)、日本を訪れたロシア皇太子ニコライを警護中 の巡査がサーベルで切りつけた、という事件が発生しました。いわゆる「大 津事件」です。事件の場所は滋賀県大津市です。犯人の津田三蔵は野洲郡三 上村(現野洲市)派出所に勤務していた巡査でした。 この事件を追ってみると、発生の背景から処理に至るまで、近代化を急い でいた明治という時代の熱い雰囲気が感じられます。 2.時代背景 まずは、大津事件前後の主な出来事を眺めてみます。 1868年 明治元年 ・明治維新 1871年 4 ・廃藩置県 1877年 10 ・西南戦争 1883年 16 ・鹿鳴館完成 1889年 22 ・大日本帝国憲法公布 ・東海道線開通(新橋−神戸) 1890年 23 ・琵琶湖疎水竣工 ・第1回帝国議会開会 1891年 24 ・大津事件 ・シベリア鉄道(東側)の建設開始 1894年 27 ・日清戦争勃発 1904年 37 ・日露戦争勃発 大津事件が発生した1891年(明治24年)は、その2年前に憲法が制 定され、近代国家としての体制が整いつつある年でした。 欧米、特に英、仏、露など ヨーロッパの列強による支配 を避けるために苦心していた 時代でした。 ←憲法発布式 (出所:「大津事件」大津市歴史博物館発行 以下、同資料からの引用には*を付す) 3.ニコライの訪問 ロシア帝国の皇太子ニコライは、ウラジオストクで行われるシベリア鉄道 の起工式に参列する途中、日本を訪問しました。訪問の目的は観光だったよ うです。 ニコライは前年の1890年11月にペテルブルグを発ち、諸外国を訪ね、 1891年4月27日に長崎へ来航し、神戸を経て5月9日に京都へ入りま した。 ニコライ(当時22歳)と一緒にギリ シャ王子ジョージ(21歳)が同行しま した。 ジョージは、ニコライと1歳違いです が、ニコライの甥だそうです。 ←ロシア皇太子ニコライ(右)と ギリシャ王子ジョージ* (なお、ニコライは大津事件の3年後に即位し、ニコライ2世となりました。 日露戦争、ロシア革命を経て、1918年7月、赤軍によって銃殺された 帝国最後の皇帝でした。) 4.事件の現場 琵琶湖観光に来たのは5月11日でした。 京都常盤ホテルを人力車で出発し、三井寺観音堂見学、汽船乗船、唐崎の松 見学をして滋賀県庁で昼食を摂りました。 昼食後、人力車に乗って京都へ向かいました。 県庁を発ってから間もない午後1時50分頃のことでした。 京町通を西に向かっていたと ころ、警備に当っていた巡査が 腰に帯びていたサーベルを抜い てニコライに切りつけました。 ニコライは頭部右側の2箇所 に傷を受けました。 犯人の津田三蔵(つださんぞ う)は人力車夫や巡査によって その場で取り押さえられました。 ←現場付近から西を見た京町通 ↓犯行に使われたサーベル* ←現場近くの辻に建てられた記念碑 ↓ 「此附近露國皇太子遭難之地」 5.動機 津田三蔵が犯行に及んだ理由はなんでしょうか。 彼の供述によれば、次のような思いがあったようです。 1.ニコライは日本を偵察に来た 2.来日するからには、まずは東京で天皇に拝するのが筋である 3.不平等な条約を結んでいるロシアの皇太子を国賓とするのはおかしい 4.西南戦争で受けた勲章を剥奪されたらたまらない 5.三井寺にある西南戦争記念碑にロシア人は敬意を表さなかった ニコライ来日を控えて、新聞各紙はロシアへの警戒心を書き立てていたそ うなので、上の1〜3のような考えを抱いたであろうことは想像できます。 4と5は津田固有の事情なので、少し詳細に見てみます。 まず、勲章のこと。 津田三蔵(1854年−1891年)は、明治10年の西南戦争に軍曹と して参加し、その功績に対して勲七等の勲章を受けました。この受賞は大変 な栄誉だと自負していたようです。 ←津田三蔵* 戦の成果を語る三蔵の母宛書簡* 「..大進撃ニテ大勝利 魁首西郷隆盛 ↓ 桐野利秋ヲ獲斃シ大愉快..」 ところが、ニコライ訪日が近づくと、 ・西南戦争で死んだはずの西郷隆盛がニコライと一緒に帰国する ・西郷が帰国したら西南戦争の受勲者から勲章をとりあげる、と明治天皇 が述べた などの噂が広まり、新聞でも書き立てられました。 さらに、ニコライと西郷、桐野達が一緒に上陸する錦絵まで流布されました。 このような空気に津田の気持ちは鬱屈していたのでしょう。 ←ニコライ上陸の錦絵* (赤い軍服のニコライ の向かって左に西郷、 右に桐野) 次に、西南戦争記念碑のこと。 ニコライの一行は午前中に三井寺の観音堂を見学し、琵琶湖の風景を眺め ました。観音堂脇に西南戦争の記念碑が建っており、津田は記念碑の近くで 警備にあたっていたそうです。 そこへ、車夫に案内させて二人のロシア人随行官が来ましたが、記念碑に 敬礼をせず、無視していたとのこと。津田は無礼な行為だとして立腹したよ うです。 現在、西南戦争記念碑は観音堂脇にはありません。 観音堂から山道を300メートル位登った上の方に移されています。 昭和14年に移設されたそうですが、何故移されたのか、その理由を示す資 料は見つからず、大津市歴史博物館で尋ねても不明でした。 ←昭和初期の三井寺 観音堂 向かって左上部に 立っている白い塔 が西南戦争記念碑 (絵葉書提供: 東京都松井様) ←現在の観音堂 左上部には塔がな い (2010年1月撮 影:撮影位置が上 の写真と少しずれ ている) ←観音堂正面あたりから記念碑の 建っていた高台を見る (2009年10月撮影) 移転理由として、この記念碑は寺院の境内に建てるのに相応しくない性格 のものだから、ということではないかと私は推測しています。 ←西南戦争の記念碑 (2009年10月撮影) ↓ 5.大審院判決 日本が列強に伍して国際的に台頭するのは日清・日露戦争で勝利した後で あり、事件当時は東洋の小国にすぎませんでした。警備の巡査が大国ロシア の皇太子を負傷させたとあって、どのような事態に発展するのか、政府の驚 愕は大きかったでしょう。 事件の翌日、5月12日、には明治天皇が汽車で京都へ来られ、13日に 京都で皇太子を見舞い、神戸まで見送りました。さらに、19日には、神戸 に停泊していたロシア軍艦まで明治天皇が再度皇太子を見舞いに行きました。 津田の処分について、政府の主な意見は、旧刑法116条に定めた大逆罪 で死刑に処すべき、というものでした。 しかし、116条は外国の皇族を想定していませんでした。 (第百十六条 天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス) 大審院(現在の最高裁判所)院長の児島惟謙(こ じま これかた)は、「法治国家として法は遵守さ れなければならない」とし、「刑法には外国皇族に 関する規定はない」と主張しました。 法律の入門書では、「司法権の独立」を貫いた例 として児島惟謙がよく紹介されます。 ←児島惟謙* 大審院法廷が大津地方裁判所で開かれ、事件から16日後の5月27日に は判決が出されました。 判決は ・第二百九十ニ条(謀殺罪:死刑)と ・第百十ニ条・百十三条第一項(未遂罪の減刑) を適用し、無期徒刑とするものでした。 第二百九十二条 豫メ謀テ人ヲ殺シタル者ハ謀殺ノ罪ト爲シ死刑ニ處ス 第百十ニ条 罪ヲ犯サントシテ已ニ其事ヲ行フト雖モ犯人意外ノ障礙若クハ舛錯 ニ因リ未タ遂ケサル時ハ已ニ遂ケタル者ノ刑ニ一等又ハ二等ヲ減ス 第百十三条 重罪ヲ犯サントシテ未タ遂ケサル者ハ前條ノ例ニ照シテ處斷ス ↑判決書全文 この事件が及ぼした影響は大きいものでした。 ・報復としてロシアが攻めてくる、と日本国中が騒然となった ・ニコライへの見舞い電報、見舞い品が後を絶たなかった ・ある村では「津田」姓と「三蔵」名を禁じる条例を決議した ・死を以って詫びるため、喉を突いて自殺した女性が現れた..など ロシアの対応は冷静で、大国としての風格を示しました。 津田を取り押さえた二人の車夫には、莫大な報奨金と終身年金がロシアから 贈られました。 津田は勲章を剥奪され、釧路に送られ、肺炎で9月29日に死亡。 享年36歳でした。 6.三上駐在所 この記事を書くことになったきっかけは、歴史教室での講義でした。 野洲市の三上という地区で行われている「楽しく学ぶ歴史教室」のテーマの ひとつとして、「大津事件」が取り上げられました。 この地区では、事件を起こした津田三蔵が三上駐 在所に勤務していたという事情があるため、大津事 件に関心を寄せている人が少なくありません。 判決書には、津田の住所として「滋賀縣近江國野 洲郡三上村大字三上寄留」と記されています。駐在 所の住所と思われます。 ところが、番地が書かれていないために場所の特 定がされておらず、どの文献でも明らかにされてい ません。 ←判決書の一部 歴史教室を指導しておられる市木先生は三上で生まれ育った方ですが、先 生も具体的な場所はご存知なかったそうです。ある機会に思い立って八方手 を尽くした結果、ようやく場所が特定できたとのことでした。 その場所とは、昭和の悠紀斎田の近くだそうです。 (昭和の悠紀斎田については こちら をご参照ください) 昭和天皇が即位された時の悠紀斎田 には三上が選ばれました。 近江富士と呼ばれる三上山の麓です。 現在、かつての悠紀斎田で5月の第 4日曜日にお田植祭が行われています。 ←お田植祭(平成18年) 昭和3年に設営された悠紀斎田の様子が写真で確認できます。 「大嘗祭悠紀斎田記念帖」(滋賀県 悠紀斎田奉賛會)という写真集を開け てみます。 この写真は、多分、三上 山の中腹から悠紀斎田を見 下ろして撮ったものです。 柵で囲まれた8枚の田が 悠紀斎田、奥の森は御上神 社(みかみじんじゃ)、そ の上の方に左から白く伸び ているのは野洲川です。 8枚の悠紀斎田は現在も 残されています。 ↑悠紀斎田全景(昭和3年) 上の写真の下端左端に見える切妻造りの家に注目してみましょう。 下の田植えの写真で左の方に見える日の丸を掲げた切妻造りの家、これは上 の写真の切妻造りの家です。この家の写真には「悠紀斎田警衛所」という見 出しが付けられており、白い制服を着た警官と思しき人物が写っています。 ←悠紀斎田での田植え ↓悠紀斎田警衛所 津田三蔵の勤務していた駐在所は位置的にはこの辺りだったようで、もし かしたらこの家が事件当時からの駐在所だったのかも知れません。 (およその位置を口頭で聞いただけの情報に基づく推測です) 駐在所と思しき建物は現在は残っていません。 三上の駐在所は3回ほど移動したそうで、現在は悠紀斎田から1キロ位離れ た所にあります。 7.余談 ・二人の人力車夫のこと: 津田を取り押さえた二人の車夫は、歴史の波に揉まれました。 日本政府から年金が36円支給されたのに対し、ロシアからは一時金が 2,500円、終身年金が1,000円支給され、ロシアは大国の貫禄を示 しました。ちなみに、この当時津田の月俸は9円でした。現在の給与水準は、 ざっと3万倍位でしょうか。 (ロシアからの年金は、日露戦争の勃発によって途絶えたようです) 一人は郡会議員まで勤め、一人は博打や女で使い果たしたそうです。 事件後は英雄視された二人も、日露戦争後は国賊視されるようになったとの ことです。 ・チャップリンのステッキのこと: 喜劇王チャップリンのトレードマークのひとつはステッキです。 チャップリンは竹根鞭製のステッキを愛好しましたが、そのステッキは滋賀 県草津の特産品だったそうです。 ニコライに同行したギリシャ王子ジョージは、滋賀県 庁で贈呈された竹根製ステッキが気に入り、持ち帰った ヨーロッパで評判になったそうです。 後年、チャップリンが愛好するきっかけとなったのは ギリシャ王子の日本訪問だったようです。 ←チャップリン 8.おわりに 野洲市三上のお年寄りの中には、津田巡査に関連した話を祖母などから聞 いたことがある、と紹介してくれた人がおりました。 「事件の前日に津田巡査がサーベルを研いでいた」「事件後の家族が気の毒 でxxx」..など。 事件を起こした津田巡査、たまたま外国からの賓客を乗せた人力車夫、 (この稿に登場した/割愛した)その他の関係者、などの動きを眺めてみる と、歴史の面白さと共に、人生色々だなあ、との想いにとらわれました。 事件の時代背景も印象的でした。当時は、今喧伝されている「坂の上の雲」 を、多くの人々が追っていたようです。 この稿を書き始めた正月早々に、東京都の松井様とおっしゃる方からメー ルをいただきました。滋賀県の古い絵葉書があるので無料で進呈する、とい うありがたいお申し出でした。早速、三井寺観音堂の写真を本稿に利用させ ていただきました。 (散策:2009年10月20日) (脱稿:2010年01月25日) ------------------------------------------------------------------ この稿のトップへ 報告書メニューへ トップページへ